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全米日系人博物館の歴史

全米日系人博物館は、日系アメリカ人の体験を伝えるアメリカで唯一の博物館です。わたしたちは博物館建設のため、高い希望をかかげ、数々の困難をのりこえ、ときには落胆もし、そしてついに目標を成し遂げました。それは幾世代にもわたって日系アメリカ人にひき継がれてきた粘り強さの賜物でした。これはその物語です。

「この博物館の完成は、日系アメリカ人にとって歴史的な瞬間であるとともに、日系人によるアメリカへの貢献の歴史に新しいページをしるした」
−ロサンゼルス・タイムス社説

支援を求め、建物を探して

いいアイデアというものは、ときとして違う場所で同時にスタートするものです。1982年、ロサンゼルスのリトル東京の日系ビジネスマンたちと第二次世界大戦で大活躍した日系退役軍人たちの2つのグループが、それぞれ日系アメリカ人に関する博物館をつくりたいと考えはじめました。不動産開発業を営み、またメリット貯蓄銀行の会長だったブルース T.カジは、リトル東京に計画されていた集合住宅のなかに博物館を併設することを提案しました。そのころ、第二次世界大戦の日系人部隊として有名な442部隊の退役軍人たちは、ロサンゼルス・カウンティ自然史博物館で「日系アメリカ人兵士」展を開催しました。442部隊の退役軍事たちはこの展示会後、常設展示できる場所をさがしはじめました。

しばらくして、韓国系アメリカ人、ヤンオク・キム陸軍大佐と日系アメリカ人、Y.B.ミヤマを中心とした退役軍人のグループが、カジに連絡をしてきました。ふたつのグループは合流し、1985年に全米日系人博物館が私立の非営利団体として正式に発足したのです。

カジ、キム、ミヤマとその仲間たちは、「日系アメリカ人の歴史と文化的アイデンティティを後世に伝えたい」という共通の思いを持っていました。多くの一世たちがこの世を去り、彼らの貴重な体験が記録されないまま消えさろうとしていました。自分たちの子供や孫、三世、四世たちは、祖父母、両親たちの苦労や成功の歴史を知らないまま育っています。第二次世界大戦中の強制収容によって、一世たちの体験を物語る生活用品や写真、文書、その他の多くの記録がすでに失われています。そして残された遺品も、屋根裏部屋でホコリをかぶり、やがて捨て去られてしまう運命にあったのです。

最初のハードルは社会的支持を得ることでした。数年間にわたるコミュニティグループ、ロサンゼルス市再開発局、カリフォルニア州議会への運動が始まりました。1985年、まずカリフォルニア州上院議員アート・トレス氏によって助成金法案が議会に提出されました。その法案のなかでトレス氏は「日系アメリカ人はこれまで、カリフォルニア州の社会、文化、経済の発展に多大な貢献をしてきた」と、その提案理由を述べました。カリフォルニア州議会は、ロサンゼルス市が同額の助成金を援助することを条件に、75万ドルの助成金を認めました。関係者の粘り強い働きかけによって、翌年ロサンゼルス市再開発局も100万ドルの助成金を決定しました。

日系コミュニティへの働きかけも活発に始められました。最初の募金パーティ「ワンナイト・ナイトクラブ」は、博物館の最初の事務所となったロサンゼルス・ダウンタウンの空倉庫で開きました。またアメリカの最高勲章「議会名誉勲章」を受賞した日系アメリカ人兵士で唯一生存しているハーシェイ・ミヤマ氏を迎えて、最初の晩餐会も開きました。プロジェクト・コーディネーターとしてナンシー・アラキが、博物館で最初の有給スタッフとなりました。次に関係者が求めたものは、博物館の建物でした。そして彼らが選んだのは、リトル東京に建つ旧西本願寺ビルでした。

日本人移民らによって1925年に建てられた西本願寺は、ロサンゼルスで最初の仏教寺院でした。京都の伝統的な寺の面影を残しながら、日本と中東の建築様式を取り入れた斬新なデザインのこの建物は、宗教行事の場であるとともに、地域の日系人の集会所、そして貸し事務所の機能も備えていました。戦前のリトル東京の生活の中心であったこの建物は、第二次世界大戦中には強制収容所に送られた日系人の家財道具などを収容しておく場所となりました。戦後、荒廃したままになっていたこの建物は1969年にロサンゼルス市に売却され、再開発のために取り壊される運命にありました。しかし関係者の働きかけによって、市再開発局と市政府からこの建物を博物館として使用することを認められ、修復されることになったのです。


「わたしの経験から言って、これは大変なことです。新しい博物館をつくるということは、とても勇気の要ることです。あるグループが、何もないところから出発して全国的な組織を作り上げたことは、大いに注目すべきことです」
−スミソニアン博物館 芸術人文科学部副長官 トム・フレデンヘイム

博物館に命を吹き込む

1980年代後半、博物館はその命ともいうべきコレクションの充実にも力を注ぎました。博物館にはたくさんの電話の問い合わせや、寄贈品が寄せられるようになりました。丁寧に包装された小包の中身は、写真花嫁が持ってきた古い着物から、パスポートなどの移民書類、日本のふるさとから届いた色あせた手紙の束など、さまざまなものがありました。アケミ・キクムラ博士が学芸部員として博物館に参加し、コレクションの充実、整理にあたるとともに、ニュースレターの発行を始めました。写真・映像記録部門も発足し、19世紀末から現代にわたる日系アメリカ人の生活を記録した写真、ホーム・ムービー、ビデオの収集、保存が始まりました。

スタッフとボランティアは博物館の紹介も始めました。「日曜日は博物館で」と題した講演会シリーズを開催し、ロサンゼルス市二世ウィークなどのイベントの機に「マンザナ強制収容所」の展示を共催しました。

1986年、関係者が待望していた旧西本願寺ビルの借用が、ロサンゼルス市議会で満場一致で可決しました。50年間にわたり、年間1ドルという好条件でした。翌年には、旧西本願寺ビルを含むファースト・ストリート北側の一角が歴史保存地域に指定され、旧西本願寺ビル自体がロサンゼルス市の重要文化財に認定されました。

博物館の活動は全米規模の団体からも認められるようになりました。連邦人文科学基金からは、展示基本計画立案のための補助金39,690ドルが交付されました。1988年には開館記念展示「一世のパイオニアたち」展の製作のため、連邦人文科学寄金から再度5万ドルの補助金が交付されました。スミソニアン博物館は、ワシントンのアメリカ歴史博物館で開催する「モア・パーフェクト・ユニオン」と題する強制収容に関する展示の作製への協力要請をしてきました。

急速に発展する組織を運営するため、理事会は館長の人選を全国規模で行いました。1988年、アイリーン・Y.ヒラノが150人以上の応募者の中から選ばれました。15年以上にわたる非営利団体の運営とコミュニティ・サービスの経験を持つヒラノは、博物館の運営、募金活動の原動力となりました。同年、元サンフランシスコ州立大学学部長兼少数民族学部長のジェームス・ヒラバヤシ博士が、学芸部長として博物館に招かれました。

ヒラノ館長のもと募金委員会が組織され、博物館は2,410万ドルの募金キャンペーンを開始しました。第1期募金活動の目標額1,020万ドルは旧西本願寺ビルを修復し、博物館の本館として活動を開始するため、第2期の目標額1,390万ドルは、新館パビリオンを建設するための資金でした。ロサンゼルス市も、ファースト・ストリート北地区再開発プロジェクトの一部として6万5千スクエアフィートの土地を新館パビリオンのために提供することを約束してくれました。


ここが(日系アメリカ人の)物語を伝えてくれる唯一の全米規模の博物館です。努力と成功、希望と大志、文化と伝統がすべてのアメリカ人に語られることでしょう。
−ハワイ州知事(1973−1986年) ジョージ・R.アリヨシ

全米に活動をひろげて

1988年、博物館は本格的に全米規模の活動を開始しました。ヒラノ館長とシグ・カガワ、ノビー・ヤマコシ両全米募金委員会共同委員長は、募金活動と新たな支援者開拓のため、アメリカ中を飛び回っていました。この3人とマナビ・ヒラサキ理事その他の博物館のボランティアたちが旅した距離は数年で何万マイルにもなりました。ハワイ、イリノイ、ニューヨーク、テキサス、アイダホ、ワシントン、オレゴン、そしてカリフォルニア州は、ことさらきめ細かく回りました。

全米を旅する博物館の私設大使たちは、日系ビジネスマンやコミュニティ・リーダーたちと積極的に会い、レセプションに参加し、コミュニティの会合に出席しました。同じところに何回も行くこともまれではありませんでしたし、旅行費用はすべて自前でした。ウイリアム・オオウチ共同委員長も率先して、博物館が全米規模の博物館になるのを大いに助けました。

博物館を支える理事会が、その体制を一新する時が訪れました。1990年、創立以来博物館を引っ張ってきたカジに変わり、ヘンリー・Y.オオタが理事長に就任しました。ハワイ選出の上院議員ダニエル・K.イノウエとスパーク・マツナガを共同理事長として1988年に発足した名誉理事会は、さらに拡大しました。地元のボランティアを中心とした館長顧問委員会も発足し、理事会は一躍全国レベルに拡がりました。

地元出身の理事は顧問委員会に参加し、全米各地から新しい理事が参加できるようにしました。顧問委員会に移った理事は、ロナルド・アカシ博士、フレッド・ホシヤマ、デビッド・ヒュン、ケイ・イノセ、ブライアン・カネコ、ヤン・O.キム、ポール・スミ、ミキ・タニムラ、ミノル・トナイなどがいました。

同時に博物館は募金活動のためのイベントを数多く開催しました。第4回年次晩餐会は「コミュニティは花ざかり」と題して、フラワー産業に貢献してきた日系アメリカ人を称え、13万ドルの募金を集めました。翌年の晩餐会は、「アメリカのイチゴ-私たちの労働の果実」と題し、マナビ&スミ・ヒラサキ夫妻が実行委員長を勤め、30万ドルを集めました。ニューヨークでは、フランシス・Y.ソギがレセプションや小会合を開き、博物館を紹介しました。ワシントンではウイリアム・H.マルモト、フォートウォースではエイリーン・ヤマガタ、ポートランドではジョージ・アズマノ、サンノゼではヨシ・ウチダ、オレンジ・カインティではジェームズ・オカザキらが、同様に活動しました。

博物館はボランティアによって始められ、その重要な原動力はいまもかわりありません。ミキ・タニムラとマサコ・コガは、とくにロサンゼルスのボランティアの中心となって、何百人というボランティアをまとめてくれました。1986年より、博物館は毎年ボランティア感謝パーティを開いています。

1990年、吉報が届きました。ブッシュ大統領が戦時補償法に署名したのです。50年という長い年月を経て、初めてアメリカ政府は第二次世界大戦中に強制収容した日系人に対して正式に謝罪し、補償金を支払ったのです。


元仏教寺院が美しく修復され、博物館に生まれ変わりました。儀式用正門、オーク材の床、オリジナルのデザインを復元した壁や天井、そしてシャンデリアと、館内は厳かな雰囲気をかもし出しています。
−サンセット・マガジン、デビット・ランシン

修復と募金活動

1990年半ば、イノウエ上院議員をはじめ、全米から市民団体、政府、宗教関係者を招いて地鎮祭が行われました。博物館は7年目にして、はじめてその本拠地を得ることができたのです。

博物館はデビット・キクチ、ヨシ・ニシモト、フランク・サタ、ロバート・ウエダら4人の日系アメリカ人建築家に、修復の監督を依頼しました。修復チームは、歴史的建造物修復の専門家ジェームズ・T.マクエレンとともに、建物の歴史的、建築的特色を保存することに努めました。

建設業者にはプラント・コンストラクションが選ばれ、J.T.ナカオカ&アソシエーツが内装の修復にあたりました。理事会から、タカシ・シダとケイ・ヒガシの二人の理事が修復の監督にあたりました。

修復にはさまざなな問題を解決しなければなりませんでした。壁の中に発見された有毒な石綿を取り除くために、多くの時間を費やさなければなりませんでした。建物の外壁を崩すことなく、電気、水道の配管や空調のシステムを取り付けなければなりませんでした。ロサンゼルス市の厳しい地震基準に合格するため、建物、とくに外壁は建物の外観を残しながら強化しなければなりませんでした。天井の美しい装飾は修復のため、慎重に取り除かれました。身体障害者のためのアクセスも取り付けられました。

歴史的建造物を保存しながら、現代の建築基準をクリアーするために、当初予想していたより150万ドルさらに必要になりました。フレッド・ホシヤマの指導のもと新たな募金キャンペーンが展開されました。

1990年末には第1期キャンペーン目標額の7割が達成されました。1992年はじめには、1,300万ドルの募金が達成しました。5,000人以上の個人、家族、会社が寄付をしてくれました。その中の27人は10万ドル以上、そして1,000人以上が3,000ドル以上の寄付でした。

開館記念展示「一世のパイオニアたち」の製作も始まりました。この展示は1885年から1924年の日系移民一世の歴史を紹介するものでした。ヒラバヤシ、キクムラ両学芸部員を中心に博物館のスタッフは、着物や生活用品、日記など一世たちの足跡を語り継ぐ遺品を全米から集めました。展示の内容は、何回にもわたり専門家たちのグループによって検討、推敲されました。展示デザイナー、ジーン・タケシタは、それらの展示品を飾る陳列ケースを、一世たちも懐かしむであろう手漉きの紙、杉の木、黒い石版の素材によってデザインしました。

数々の受賞経験を持つロバート・ナカムラとカレン・イシズカの写真・映像記録部門のチームは、何百本という一世たちが残した16ミリや8ミリフィルムを収集、再生、保存するとともに、3画面のビデオ・プレゼンテーションを作製。この「ホーム・ムービー」は当時一世たちが好んで聞いていた日本の音楽とともに、70年にわたる一世の時代を映像でよみがえらせました。一世の時代を思い出させる音楽や詩、自然の効果音などを組み合わせた環境音楽も作成され、展示場で流されました。

博物館の活動はロサンゼルスだけに限りませんでした。1991年5月には、ハワイのホノルルで「偉大な普通の人々」と題する写真展を4日間にわたり開催。ニューヨークのニッポン・クラブでは、「消え去ることのない業績」と題して、1870年代にニューヨークで活躍した日本人ビジネスマンたちの歴史と生活の様子を紹介しました。さらに博物館はカリフォルニア大学ロサンゼルス校アジア系アメリカ人研究所とウェイ・アート・ギャラリーと共催で、強制収容所時代の絵画展を開催することを発表。「フェンスの中から」と題したこの絵画展は、強制退去命令50周年であり、博物館の開館の年、1992年に開催されました。

もうひとつ特筆すべきことは、タケシ・マキノダン博士を中心として発足された全米学者諮問委員会です。100人以上の学者、専門家からなるこの委員会は、博物館に広く、深い貴重な知識の宝庫を与えてくれました。

こうした研究面での発展と同時に、運営面でも大きな発展がありました。1991年の年次総会では、故マツナガ上院議員を称えるレセプションを開き、彼の長年の業績を記録にとどめる永久保存コレクションの製作が発表されました。連邦人文科学基金は、増えつづける所蔵品の整理のため、5万ドルの新たな助成金を交付してくれました。1992年はじめ、15人のスタッフはついに修復された博物館本館に入ることができました。


「全米日系人博物館−ロサンゼルス暴動の翌日に開館したこの博物館は、市民の願いのこもった重要な建物のひとつである」
−サンホゼ・マーキュリーニュース、ドナ・カトウ

夢の実現に向けて

博物館の開館を記念する1週間にわたるイベントは、スタッフとボランティアが一年をかけて企画しました。会員への特別公開、1,000人のゲストを招いての晩餐会、シンポジウムなどなど。数千の招待状が発送されました。

開館までに会員数は13,000人をこえ、2,000以上の家族が特別公開を希望しました。晩餐会のチケットは数週間前に売り切れました。一般公開に先立って行われたプレス・プレビューには、3大ネットワークを含むテレビ、新聞各社が全米から取材にきました。ロサンゼルス以外の遠隔地からも数百人の支援者が、開館の日に参加すべく予約を入れてきました。

しかし開館記念式典は予定通りには行われませんでした。前の晩からロサンゼルス暴動が起こったのです。すでに何百人というゲストが全米から、そして日本からロサンゼルスに到着していました。博物館は急遽、館内での縮小した記念式典を行うことになりました。暴動のさなかに行われた会館記念式典は、多文化社会の相互理解を深めたいという博物館の使命の重要性を、改めて参加者に認識させる結果となりました。

10日後から、博物館は一般公開されました。式典で博物館は、コミュニティのさまざまな博物館や団体とともに、教育をとおして人種間の相互理解を深める活動に積極的に参加することを表明しました。式典では、日系四世、13才のグラント・ムラタ・スノオ君が、101才の一世、カツマ・ムカエダ名誉博物館理事に花束を贈呈しました。

1992年の博物館開館は、新たな挑戦への始まりです。博物館はこれから、展示やプログラム、出版などをとおして全米、そして全世界に日系アメリカ人の体験とそのアメリカへの影響を伝えつづけます。

「博物館は確かに日系アメリカ人によって建てられました。しかし同様の体験を共有するほかのアメリカ人たちも、その建設に参加しました。この博物館はアメリカ人よって立てられたアメリカの博物館です。そこに意義があるのです」
−上院議員 ダニエル・イノウエ、(USAトゥディ紙掲載)


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全 米 日 系 人 博 物 館
JAPANESE AMERICAN NATIONAL MUSEUM
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電話:(213)625-0414 ファックス:(213)625-1770
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