日系アメリカ人強制収容所の概要
「アメリカの強制収容所-日系アメリカ人の体験を語り継ぐ」展より
第二次世界大戦中、12万313人の日系アメリカ人がアメリカ政府によって強制収容所に送られた。かれらの大半は戦時転住局が管理する10ヶ所の強制収容所に入れられ、のこりの人々は司法省やそのほかの政府機関が管理する収容所や拘置所に入れられた。
日米開戦の翌年1942年に、アメリカ西海岸とハワイの一部の地域にすむ日系アメリカ人たちは、その7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていたにもかかわらず、強制的に立ち退きを命ぜられた。なんの補償も得られないまま、かれらは家や会社を安値で売り渡さなければならず、中にはすべての財産を失ってしまった人もいた。
日系アメリカ人が国家の安全保障の脅威になるという口実のもと、フランクリン・ルーズベルト大統領は大統領行政命令9066号に署名し、陸軍省に、地域を指定しその地域内のいかなる人にも強制立ち退きを命じる権限をあたえてしまったのである。
それから40年後の1982年、「戦時市民転住収容に関する委員会」は、「大統領行政命令9066号は軍事的必要性によって正当化できるものではない。あらためて歴史的にその原因をさぐれば、それは人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治指導者の失政であった」と、ようやく結論したのである。
収容所の所在地
| 地名 |
英語名 |
州 |
開設日 |
閉鎖日 |
| ツールレイク |
Tule Lake |
カリフォルニア |
1942年5月27日 |
1946年3月20日 |
| ポストン |
Poston |
アリゾナ |
1942年5月8日 |
1945年11月8日 |
| マンザナー |
Manzanar |
カリフォルニア |
1942年6月1日 |
1945年11月21日 |
| ヒラ・リバー |
Gila River |
アリゾナ |
1942年7月20日 |
1945年9月28日 |
| ミニドカ |
Minidoka |
アイダホ |
1942年8月10日 |
1945年10月28日 |
| ハート・マウンテン |
Heart Mountain |
ワイオミング |
1942年8月12日 |
1945年11月10日 |
| アマチ |
Amache |
コロラド |
1942年8月27日 |
1945年10月31日 |
| トパーズ |
Topaz |
ユタ |
1942年9月11日 |
1945年10月31日 |
| ローワー |
Rohwer |
アーカンソー |
1942年9月18日 |
1945年11月30日 |
| ジェローム |
Jerome |
アーカンソー |
1942年10月6日 |
1944年6月30日 |
| クリスタル・シティ |
Crystal City |
テキサス |
1942年11月 |
1947年12月 |
上記11ヶ所の収容所のうち、うえから10ヶ所の収容所は戦時転住局が管理していたが、11番目のクリスタル・シティは司法省の管轄で、約3000人の日系アメリカ人が抑留されていた。
また強制立ち退きを強いられた日系アメリカ人たちは、収容所に送られるまでのあいだ、16ヶ所の集合センターに拘留されていた。そのうち14ヶ所はカリフォルニア州内に設けられていた。集合センターが最初に開設されたのは1942年3月末で、すべての拘留者が強制収容所に送られた1942年9月に最後の集合センターが閉鎖された。
第二次世界大戦中、エリス島をはじめとするいくつかの移民施設は、移民局の管理のもと、敵性外国人の拘置、抑留所として使われていた。1941年から1954年までのあいだ、約8,000人の外国人がエイリス島に抑留されていたが、そのほとんどが日本人だった。かれらはアメリカに何十年も住んでいたが、市民になることを禁じられていたのである。
1988年8月10日、レーガン大統領は「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)」に署名し、アメリカ政府は初めて公式に日系アメリカ人に謝罪し、署名した日に生存している被強制収容者全員に対してそれぞれ2万ドルの補償金を支払った。同時に、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、日系アメリカ人の強制収容所体験を全米の学校で教えるため、12億5,000万ドルの教育基金が設立された。
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