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日系アメリカ人強制収容所の関連年表

1790年3月26日  アメリカ議会は帰化法を制定し、市民権を取得する権利を「アメリカの法律を守り、2年間アメリカに住みつづけた自由な白人」に限定した。この「自由な白人」という限定は、1873年に「アフリカ生まれ及びその子孫」という項目が付け加えられるまでつづいた。そしてこの法律は、20世紀中ごろ改正されるまで、日本人及びそのほかのアジア系移民の市民権取得を拒否する法的根拠となった。

1882年5月6日  ガーフィールド大統領の拒否権をくつがえして、アメリカ議会は中国人排斥法を可決。この後60年間にわたり、中国人の移民は禁止された。

1885年2月8日  日本からの契約労働者944人を乗せた「シティ・オブ・トキオ」が、ホノルルに到着。ハワイ国王(当時)と明治天皇による正式な契約移民が始まる。その後ハワイは1898年にアメリカに併合される。

1885年9月2日  ワイオミング州ロック・スプリングのチャイナタウンが暴徒の襲撃を受けて放火される。中国人炭鉱労働者28人が死亡、15人が負傷した。さらに数百人の中国人が町を追われ、家や商店が破壊された。被害は当時の金額で14万8000ドルにのぼった。この「ロック・スプリング大虐殺」は、中国人が低賃金で働き、ストライキ破りの要員として使われたことに対する、中国人排斥感情の高まりが原因だった。16人の白人が容疑者として逮捕され裁判にかけられたが、全員無罪となった。

1905年2月23日  日刊紙「サンフランシスコ・クロニクル」の一面に、「日本人の侵略-現代の問題」という見出しが掲載され、厳しい反日キャンペーンが始まる。この日刊紙の論調が反日運動に火をつける引き金となった。

1905年5月14日  「アジア人排斥同盟」がサンフランシスコで結成され、この日が正式な反日運動の始まりとなる。第一回会合の参加者には、サンフランシスコ建設業評議会のパトリック・ヘンリー・マッカーシーとオラフ・ティベットモー、海員組合のアンドリュー・フルセスとウォルター・マッカーシーなどの労働運動指導者(そしてヨーロッパ系移民)たちがいた。ティベットモーが初代の議長に任命された。

1913年5月19日  ヒラム・ジョンソン・カリフォルニア州知事が1913年外国人土地法に署名、8月10日から施行される。この法は「帰化不能外国人」(つまり日本人を含むアジア系移民)の土地所有を禁じた。

1920年11月  1920年外国人土地法が、住民提案で投票にかけられ可決される。この新土地法は、1913年外国人土地法の抜け穴をふさぐための、より厳しい法律だった。12月9日に施行される。

1921年7月19日  武装した白人が、カリフォルニア州トゥーロックから58人の日本人労働者をトラックで町の外に連れ出し、帰ってこないよう警告して置き去りにした。同じような事件がカリフォルニア州各地やオレゴン州、アリゾナ州の一部で発生した。.

1922年11月13日  アメリカ最高裁判所でオザワ訴訟の判決が下り、人種を理由に日本人移民の帰化権を拒絶する最終判断が下される。この日本人帰化権否認は1952年までつづく。

1924年5月26日  カルバン・クーリッジ大統領が1924年移民法に署名、日本からの移民が事実上停止される。

1941年8月18日  ミシガン州選出のジョン・ディンゲル下院議員が、ルーズベルト大統領宛の手紙の中で、一万人のハワイの日系アメリカ人を人質として強制収容し、日本の「良い態度」を確保するよう提案する。

1941年11月12日  ロサンゼルスのリトル東京で、ビジネスマンやコミュニティ・リーダーら15人の日系アメリカ人が、FBIの急襲で逮捕される。日系商工会議所や中央日本人会などの団体の記録や会員名簿も押収された。逮捕された15人は当局に協力するとともに、中央日本人会のスポークスマンは声明を発表した。「わたしたちはアメリカの基本原則と、誇り高いアメリカン・デモクラシーを子供たちに教えてきた。わたしたちは、平和と調和のもとにここで暮らしたい。わたしたちは、アメリカに100パーセント忠節である」

1941年12月7日(米東部時間  真珠湾攻撃。地元当局とFBIが、ハワイとアメリカ本土の日系コミュニティ・リーダーたちを拘束。翌日の朝6時半までに736人の一世たちが逮捕され、48時間後には、その数は1,291人までになった。かれらは正式な容疑も告げられることなく突然逮捕され、家族は面会を許されなかった。逮捕された一世の多くは、そのまま司法省管轄の敵性外国人収容所に送られ、戦時中を過ごすこととなった。

1941年12月11日  ジョン・L.デウィット中将を司令官に、西部防衛司令部が発足。西海岸が軍事地域に指定される。

1941年12月15日  フランク・ノックス海軍長官は、急遽ハワイに飛び真珠湾攻撃の損害を検分したあと、まったく証拠がなかったにも関わらず、「この戦争全体を通じて、おそらくノルウェー以外ではもっとも効果的な第五列活動(スパイ活動)がハワイでおこなわれた」とメディアに語った。

1942年2月19日  ルーズベルト大統領が、裁判や公聴会なしに特定地域から住民を排除する権限を陸軍にあたえる、大統領行政命令9066号に署名。事実上この命令が、日系アメリカ人の強制立ち退きから強制収容への一連の軍事行動を可能にした。

1942年2月25日  海軍は、ロサンゼルス港沖合のターミナル島に住む日系アメリカ人に対し、48時間以内に立ち退くよう命令。かれらが最初に集団強制立ち退き命令を受けたグループとなる。短時間の立ち退きのため、多大な損失をこうむった。

1942年2月27日  チェース・クラーク・アイダホ州知事は、シアトルでアメリカ議会の委員会に対し、「軍隊に警備された強制収容所」に入れるなら、アイダホ州は日本人を受け入れると発言。彼の考え方が、不幸なことに現実となった。

1942年3月2日  ジョン・L.デウィット中将が、軍事地域第1区と第2区を指定する布告第1号を発布。カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州の西部とアリゾナ州の一部が第1区に指定され、これら4州の残り全域が第2区に指定された。この公布は、軍事地域第1区から人々を立ち退かせることを意図していた。

1942年3月18日  大統領行政命令9102号により、戦時転住局が設立される。局長はミルトン・アイゼンハワー、550万ドルの予算が配分された。

1942年3月21日  マンザナー強制収容所に、最初の「自主的退去者」のグループが到着する。6月1日からここは戦時転住局の管理下に置かれ、「転住センター」となった。

1942年3月24日  陸軍による最初の市民立ち退き命令が、シアトル近郊のベインブリッジ島地区に発令される。45家族の日系アメリカ人は、立ち退きの準備に1週間だけ与えられた。10月末までに108件の立ち退き命令が出され、軍事地域第1区全域と、カリフォルニア州の第2区に住むすべての日系アメリカ人が強制収容された。

1942年3月27日  陸軍は、軍事地域第1区から住所を変更することを禁じた布告第4号を発布。事実上、「自主的立ち退き」が出来なくなる。

1942年3月28日  ミノル・ヤスイが、日系アメリカ人に対して出されていた夜間外出禁止令に関して法廷で争うため、午後11時20分にポートランドの警察に徒歩で自首する。

1942年5月1日  二世ジャーナリスト、ジェームス・オオムラは、コロラド州デンバーに「自主的転住」を希望し、ワシントンの弁護士事務所に手紙を書き、憲法で保障された市民の権利の侵害と経済的損失の補償を求めてアメリカ政府を訴える訴訟をおこしてくれるよう依頼する。しかし3,500ドルという、当時としては法外な弁護料を要求され、断念する。

1942年5月8日  コロラド・リバー、別名ポストン強制収容所に、最初の「自主的退去者」がカリフォルニア州インペリアル・バレーから到着。この日から3週間で7,450人の収容者が到着した。

1942年5月13日  イチロウ・シモダ(45才、ロサンゼルスの庭園業者)が、オクラホマ州のフォート・スティル敵性外国人収容所から逃亡しようとして、監視兵に射殺される。シモダは12月7日に逮捕されて以来2回も自殺を試みるなど、精神異常をきたしており、監視兵もかれの精神状態を知っていたが、射殺された。

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