
オンライン展覧会

二つの世界を生きた芸術家 ロサンゼルスと広島、1917年〜1944年
松本若次
松本若次は、1889年7月17日、日本の広島県廿日市市地御前で、松本若松とハル(旧姓元山)のもとに生まれました。1906年、父若松はロサンゼルスにある自身の農園を手伝うよう若次を呼び寄せます。若次は日本からカナダのブリティッシュ・コロンビア州のビクトリアまで船で渡り、そこから小船や鉄道でロサンゼルスへ辿り着きました。若次はまず英語を身に付けるため雑用係として働き、その後農園で働くようになりました。若次はグラフィックアーティストになることを強く望んでいました。それは新しい世界へ足を踏み入れるという難しい挑戦であり、また父若松にも反対されているものでした。しかし若次が写真花嫁の木村テエと結婚したあと、若松は農園の経営の仕方をテエに教えました。経営が軌道に乗ったころ、若松は日本へ帰国します。そして若次はロサンゼルスで写真家としての道に進むことができたのです。
1927年、若次とテエ、そしてアメリカ生まれの子供たちは広島に帰郷しました。アメリカから持ち帰った最新式のカメラと撮影機材を携えて、若次は広島の中心地に写真館を開きました。商業用の写真やスタジオ撮影を撮る傍ら、若次はアート写真も追求し続けました。しかし戦争により1942年に若次は写真館の閉鎖を余儀なくされました。若次は自身の撮影した写真を、原爆の爆心地にとても近かった写真館から、地御前の実家へと移すことができました。そのため写真は被害を被ることなく、2008年に若次の孫である写真家、大内斉(ひとし)によって発見されるまで、手付かずのまま保管されることになりました。それらの写真の価値と重要性に気付いた大内は、写真を広島市公文書館に寄贈することにしました。若次の写真が発見されたことは、歴史的に大変重要な出来事でした。若次の写真コレクションが提供されたことによって、これまで保存されていた広島の写真の合計枚数は10倍ほどにまで増えました。しかしながら多くの写真は1945年の原爆により失われたままです。
若次の若かりし日々を綴った短編映像、略歴、若次が撮影した家族写真、年表を、ぜひご覧ください。
松本若次
開催中
松本若次
「松本若次:二つの世界を生きた芸術家 ロサンゼルスと広島、1917年〜1944年」では、写真家、松本若次のレンズを通して撮影された、第二次世界大戦前のロサンゼルスの日系アメリカ人コミュニティーと、1945年の原爆投下前の広島の都市の生活を記録した貴重な写真の数々をご紹介します。
このオンライン展示会では、若次の孫娘にあたるカレン松本と本展のキュレーターであるデニス・リードによるエッセイをはじめ、年表、フォトギャラリー、受賞歴もあるJANMのワタセ・メディアアーツ・センターによる短編ドキュメンタリー映像、また教育アクティビティーなども紹介しています。
松本若次は、1889年7月17日、日本の広島県廿日市(はつかいち)市の地御前(じごぜん)に、松本若松とハル(旧姓元山)のもとに生まれました。若次は父の農園を手伝うため、カナダを経由してアメリカに渡りました。農園では畑作業をしたり収穫した作物をロサンゼルスまで車で運んだりしていましたが、若次はグラフィックアーティストになることを強く望んでいました。若次にとって幸運であったのは、父の若松が若次の妻テエに農園の経営の仕方を教えることにしたため、若次はロサンゼルスと広島で活躍するプロのカメラマンとなることができたのです。1965年、若次は76歳の時に地御前で亡くなりました。テエはその後も家族と暮らした家に住み続け、1995年に101歳でこの世を去りました。若次の撮影した写真は手付かずのままになっていましたが、2008年、松本の孫で自身も写真家である大内斉(ひとし)によって発見され、それらの写真の価値と重要性に気付いた大内が写真を広島市公文書館に寄贈することにしました。
展示を最大限にお楽しみいただくために、コンピューターでの閲覧を推奨しています。

デニス·リードはキュレーター、収集家、芸術家そして作家です。戦時中に日系人が強制収容されたことにより、大部分が失われた日系人写真家の作品を再発見したことで知られています。これまでにホイットニー美術館、ハンティントンライブラリー、オークランド博物館、コーコラン美術館、中国歴史協会(サンフランシスコ)、カリフォルニア写真博物館、全米日系人博物館など、大小合わせて50以上の展覧会を企画してきました。代表的な著書に『Pictorialism in California, 1900-1940』(ゲッティ美術館およびハンティントンライブラリー)、『Japanese Photography in America, 1920-1940』(日米文化会館)『Making Waves: Japanese American Photography, 1920-1940』(全米日系人博物館)など。ロサンゼルス・バレー・カレッジの芸術学部の元学部長。ロサンゼルス・カウンティー美術館(LACMA)の写真芸術評議会の元議長。

カレン松本は、松本若次の孫娘にあたり、現役を退くまで教育に携わってきました。「松本若次:二つの世界を生きた芸術家」ではプロジェクトのリエゾン役として関わりました。2013年に制作された、カレンの父についてのドキュメンタリー作品「名誉と犠牲:ロイ松本の物語」ではエグゼクティブ・プロデューサーを務めました。このドキュメンタリーは、松本若次によって撮影された写真にフォーカスを当てていて、若次の写真を広く一般に紹介するきっかけとなりました。カレンは、第二次世界大戦中におきた日系アメリカ人の強制収容の体験に関する教育カリキュラムを作成したり、サンフランシスコの全米日系歴史協会で指導教諭も務めています。また、ベインブリッジ島日系アメリカ人コミュニティーの理事でもあります。
「松本若次:二つの世界を生きた芸術家 ロサンゼルスと広島、1917年〜1944年」は、全米人文科学基金計画助成金、カリフォルニア人文科学基金の全ての人のための人文科学助成金、およびバークレーJACLの支援により実現しました。しかしながら、この展覧会で表明されている見解、発見、結論、勧告は、必ずしも全米人文科学基金の見解を示すものではありません。また、松本若次の孫の大内斉さん、広島市公文書館のコントリビューター&ロジスティクス・コーディネーター、広島市公文書館、広島平和記念資料館、中国新聞社、広島フィルムコミッションのサポートを受けました。
また、若次や松本家の歴史について情報を提供してくださった、川本静枝さん、パット・デュープス・マツモトさん、クライド・マツモトさん、ダーン・エアリックさん、川本真さん恵子さん、川本夏海さん、矢野敏さん、松本文子さん、これらの方々の協力により本展は実現することができました。
本展覧会の全ての写真は松本若次が撮影したものです(著作権は松本家に帰属します)。JANMの展示であると示すために、JANMの透かしが入っている写真も松本家が著作権を保持しています。
上の写真:「松本若次セルフポートレイト」「相生橋周辺の広島市街地、1938年」「板岡とトラック」。全ての写真は松本若次撮影(©️ 松本ファミリー)
このプロジェクトは全米人文科学基金のパートナーである非営利団体、カリフォルニア人文科学基金の支援によって実現しました。詳細はcalhum.orgをご覧ください。
メディア・スポンサー
本展覧会の写真についての詳細は、カレン松本(WakajiExhibition@gmail.com)まで英語でご連絡ください。
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「松本若次:二つの世界を生きた芸術家 ロサンゼルスと広島、1917年〜1944年」では、写真家、松本若次のレンズを通して撮影された、第二次世界大戦前のロサンゼルスの日系アメリカ人コミュニティーと、1945年の原爆投下前の広島の都市の生活を記録した貴重な写真の数々をご紹介します。
このオンライン展示会では、若次の孫娘にあたるカレン松本と本展のキュレーターであるデニス・リードによるエッセイをはじめ、年表、フォトギャラリー、受賞歴もあるJANMのワタセ・メディアアーツ・センターによる短編ドキュメンタリー映像、また教育アクティビティーなども紹介しています。
松本若次は、1889年7月17日、日本の広島県廿日市(はつかいち)市の地御前(じごぜん)に、松本若松とハル(旧姓元山)のもとに生まれました。若次は父の農園を手伝うため、カナダを経由してアメリカに渡りました。農園では畑作業をしたり収穫した作物をロサンゼルスまで車で運んだりしていましたが、若次はグラフィックアーティストになることを強く望んでいました。若次にとって幸運であったのは、父の若松が若次の妻テエに農園の経営の仕方を教えることにしたため、若次はロサンゼルスと広島で活躍するプロのカメラマンとなることができたのです。1965年、若次は76歳の時に地御前で亡くなりました。テエはその後も家族と暮らした家に住み続け、1995年に101歳でこの世を去りました。若次の撮影した写真は手付かずのままになっていましたが、2008年、松本の孫で自身も写真家である大内斉(ひとし)によって発見され、それらの写真の価値と重要性に気付いた大内が写真を広島市公文書館に寄贈することにしました。
展示を最大限にお楽しみいただくために、コンピューターでの閲覧を推奨しています。

デニス·リードはキュレーター、収集家、芸術家そして作家です。戦時中に日系人が強制収容されたことにより、大部分が失われた日系人写真家の作品を再発見したことで知られています。これまでにホイットニー美術館、ハンティントンライブラリー、オークランド博物館、コーコラン美術館、中国歴史協会(サンフランシスコ)、カリフォルニア写真博物館、全米日系人博物館など、大小合わせて50以上の展覧会を企画してきました。代表的な著書に『Pictorialism in California, 1900-1940』(ゲッティ美術館およびハンティントンライブラリー)、『Japanese Photography in America, 1920-1940』(日米文化会館)『Making Waves: Japanese American Photography, 1920-1940』(全米日系人博物館)など。ロサンゼルス・バレー・カレッジの芸術学部の元学部長。ロサンゼルス・カウンティー美術館(LACMA)の写真芸術評議会の元議長。

カレン松本は、松本若次の孫娘にあたり、現役を退くまで教育に携わってきました。「松本若次:二つの世界を生きた芸術家」ではプロジェクトのリエゾン役として関わりました。2013年に制作された、カレンの父についてのドキュメンタリー作品「名誉と犠牲:ロイ松本の物語」ではエグゼクティブ・プロデューサーを務めました。このドキュメンタリーは、松本若次によって撮影された写真にフォーカスを当てていて、若次の写真を広く一般に紹介するきっかけとなりました。カレンは、第二次世界大戦中におきた日系アメリカ人の強制収容の体験に関する教育カリキュラムを作成したり、サンフランシスコの全米日系歴史協会で指導教諭も務めています。また、ベインブリッジ島日系アメリカ人コミュニティーの理事でもあります。
「松本若次:二つの世界を生きた芸術家 ロサンゼルスと広島、1917年〜1944年」は、全米人文科学基金計画助成金、カリフォルニア人文科学基金の全ての人のための人文科学助成金、およびバークレーJACLの支援により実現しました。しかしながら、この展覧会で表明されている見解、発見、結論、勧告は、必ずしも全米人文科学基金の見解を示すものではありません。また、松本若次の孫の大内斉さん、広島市公文書館のコントリビューター&ロジスティクス・コーディネーター、広島市公文書館、広島平和記念資料館、中国新聞社、広島フィルムコミッションのサポートを受けました。
また、若次や松本家の歴史について情報を提供してくださった、川本静枝さん、パット・デュープス・マツモトさん、クライド・マツモトさん、ダーン・エアリックさん、川本真さん恵子さん、川本夏海さん、矢野敏さん、松本文子さん、これらの方々の協力により本展は実現することができました。
本展覧会の全ての写真は松本若次が撮影したものです(著作権は松本家に帰属します)。JANMの展示であると示すために、JANMの透かしが入っている写真も松本家が著作権を保持しています。
上の写真:「松本若次セルフポートレイト」「相生橋周辺の広島市街地、1938年」「板岡とトラック」。全ての写真は松本若次撮影(©️ 松本ファミリー)
このプロジェクトは全米人文科学基金のパートナーである非営利団体、カリフォルニア人文科学基金の支援によって実現しました。詳細はcalhum.orgをご覧ください。
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松本若次—エピソード1:若かりし日々
Wakaji Matsumoto—Episode 1: His Early Days
Wakaji Matsumoto—Episode 1: His Early Days

略歴
松本若次は、1889年7月17日、日本の広島県佐伯郡(現在の廿日市市)地御前に、松本若松とハル(旧姓元山)の元に生まれました。若松は漁師を生業としていましたが、自宅の隣にある小さな土地で農業も営んでいました。若松は、自分は末っ子であり家業を継ぐことはできないこと、そして自分が日本で成功する見込みは限られているということを知っていました。そのため、新聞の広告で見つけた求人に応募しました。それはハワイにあるパイナップル畑とサトウキビ畑で働くというものでした。1890年、若松とハルは、若次と姉のマツを日本にいる親戚に預け、カウアイ島で契約労働者として働くため日本をあとにしました。若松とハルのように、広島からハワイに渡った労働者は3万人近くに上りました。
若松とハルは、ハワイで二人の子供をもうけました。そこでの労働はとても過酷で、家族の暮らしは良くならなかったため、若松はアメリカの西海岸に成功を求めることにしました。労働契約が終了すると、若松はハルと子供たちを広島の地御前へと移し、ロサンゼルスで農園を営むため旅立ちました。若松は、コマース市として知られている現在のメイウッドとラグーナに2つの農園を構えました。そして1906年、一緒に農園を手伝うよう若次をアメリカに呼び寄せます。
多くの日本人男性がそうであったように、若次もまた、日本からカナダのブリティッシュ・コロンビア州のビクトリアに船で渡り、そこから小船や鉄道でロサンゼルスへ辿り着きました。父と再会したとき若次は17歳でした。父のことはほとんど知りませんでした。若次は農園で働き、収穫したものをロサンゼルスのセブンス通り市場まで車で運ぶ仕事をしていましたが、若次が本当になりたかった職業はグラフィックアーティストでした。それは新しい世界へ足を踏み入れるという難しい挑戦であり、父若松からも反対されていました。しかし若次にとって幸運であったのは、若次の写真花嫁であり妻となった木村テエが、次第に農園の経営を手伝うようになっていったのです。
若次の友人でもあるテエの兄が仲人となり、若次とテエは1912年に結婚しました。武家の子孫であったテエは、農園に辿り着いたとき、自分が全く知らない異国の地に来てしまったことを自覚しました。しかし若松はそんなテエを気遣い、農園の経営の仕方をテエに教えました。1917年、経営が軌道に乗ってきたころ、若松は地御前へと戻り、そして若次は自分のキャリアを築くためアートと写真の分野に進み始めました。
若次は写真技術の通信講座を受講し、自分がなりたいのはプロの写真家だと気が付きます。テエが農園を守る傍ら、若次は技術を磨き、写真撮影についてさらに勉強するためサンディエゴへ移り住みました。このころ若次は、当時写真館と写真技術の学校を運営していた下津佐正志のもとで写真を学んだと推測されています。下津佐はパノラマ写真の優れた技術を持っていました。若次は1922年には写真家となり、ロサンゼルスの写真業界で活動するようになりました。そして1925年には宮武東洋の写真館、「東洋写真館」でアシスタントとなり、日本人カメラ・ピクトリアリスト・オブ・カリフォルニアのメンバーにもなりました。若次はまた、ロサンゼルスの日系アメリカ人の借地農家のパノラマ写真などを撮影し、自己表現の一つの形としました。
この頃、若次とテエは南カリフォルニアで農園を営むことの大変さと、日本に帰国する利点を比べて考えていました。子供たちはロサンゼルスで良い教育を受けていましたが、松本家の方では日本の教育を受けさせたいと思っていました。また若次自身も自分の写真館を開くため日本に帰国したいと考えていました。日本で教育を受けさせたいという松本家の望みと、2年間不作が続いたこと、農地を所有する資格がないこと、またロサンゼルスで写真館を始めるには競争が激しいことなどを総合的に考えた結果、若次一家は1927年の夏に広島に帰ることにしました。
若次は広島市中区、現在は原爆ドームとして知られている広島県産業奨励館の近くに「広島写真館」を開きました。写真館の二階に家族は暮らしました。腕の立つ写真家であった若次は、当時日本ではまだ手に入らなかった撮影機材を使っていたため大変有利でした。若次はその機材をアメリカの農園で稼いだお金で購入していました。若次は写真館での仕事のほか、商業用の宣伝写真、また日本軍やその他企業の契約カメラマンとしての仕事も手掛けました。若次の写真は高く評価され、多くの需要がありました。それ以外にも若次は、広島市内の日常風景や周囲の田舎の様子なども写真に収めました。これらの写真の大半は、その後原爆によって破壊されてしまう広島の人々や行事や風景を収めた唯一の記録となっています。
1942年、若次は撮影に必要な道具を手に入れることができなくなったため、写真館を閉め、家族を地御前の実家へと移しました。1943年には山口県宇部市の炭鉱に動員され、そこで生涯悩まされることになる深刻な肺の病気を患いました。若次は家に戻ったあと、実家に小さな写真館を作り、写真家としての活動を再開します。1945年、軌道をそれたアメリカの爆弾が近所の家と若次の写真館を破壊しました。幸いにも若次の家族にケガはなく、若次の撮影した写真もすべて写真館から持ち出して保管されており無事でした。
1965年、若次は地御前で亡くなりました。76歳でした。テエはその後も家族と暮らした家で30年過ごしました。そして1995年に101歳でこの世を去りました。若次の撮影した写真やネガフィルムは手付かずのままになっていましたが、2008年、若次の孫で、自身も写真家である大内斉によって発見されました。それらの写真の価値と重要性に気付いた大内は、写真を広島市公文書館に寄贈することにしました。原爆が投下される前の広島の様子を写した若次の写真は、歴史的に大変貴重なものです。若次の写真コレクションが提供されたことによって、これまで保存されていた広島の写真の合計枚数は10倍ほどにまで増えました。しかしながら多くの写真は1945年の原爆により失われたままです。
家族写真
若次は、自身の家族や農園での暮らしなど個人的なことも写真に残しました。
「ギャラリービュー」をクリックすると、写真と説明文を全画面でご覧になれます。拡大マークをクリックすると拡大できます。
若次と家族の車
左から右:松本義雄、若次、テエ、農園の従業員と一緒に、1910年製キャデラックに乗って。1920年頃
松本農園での玉ねぎの収穫
左から右:ヘイサク・ナカタニ(農園の従業員)、松本武、博(ロイ)、テエ。1918年頃
ハリウッド・マウンテンへの家族の遠足
松本義雄、テエ、子どもたち(昇、勤、武、博)、フォード・モデルA。1919年頃
日本へ帰る父の見送り
若次の父、若松の日本への帰国、サンペドロ。1917年頃
松本家を訪ねてきた近所の人たち
北原マツと玉川藤一、フォード・モデルAに乗った昇と勤(若次の子供)と一緒に。1921年頃
松本若次の農家
現在のコマース市の借地にあった松本若次の農家、1923年
若次と家族、近隣の人々
若次とテエと子供たち、近所の人々と自身の農園で。若次はシャッターを押すためのレリーズボタンを手に持っている。写真に写っている子供たちは博、武、勤、昇、春枝。1920年頃
松本若松とハル、若次の子供たちと広島で
若次の両親若松とハル、若次の子供たちと友人と一緒に。左から右:昇、静枝、武、若松、博、ハル、勤、一家の友人のチヨノ・ナガト、広島にて。1929年頃
若次と孫の斉
若次と孫の川本(大内)斉(若次の娘静枝の子供)、広島にて、1960年。斉は2008年に若次の撮影した写真を再発見した
松本若次
松本テエ撮影。1958年頃



年表
1889
- 1889年7月17日、日本の広島県廿日市市地御前に誕生。
1900
- 松本若松が家族を日本に残し、シアトルに到着。その後ロサンゼルスに移り、農園の経営で成功を収める。
1906
- 松本若松の長男である若次は、広島を出てカナダのバンクーバーに着き、そこから鉄道でロサンゼルスへと渡る。渡米当初は英語を身に付けるため雑用係として働き、その後父が営む農園の仕事に加わった。
1912
- 木村テエは、天洋丸に乗りサンフランシスコへと渡り、「写真花嫁」として若次と出会い、アメリカで結婚式を挙げた。
1913
- 若次とテエの第一子、博ロイが、カリフォルニア州のラグーナ(ロサンゼルス)で誕生。
1917
- 松本若松が広島へ帰郷し、義理の娘であるテエに農園の経営を引き継ぐ。若次は写真技術を学び、リトル東京にある宮武東洋の写真館で職を得る。その後10年にわたり、ロサンゼルス地域で写真に没頭。
1927
- 若次とその家族が南カリフォルニアから広島へと帰郷。
- 若次は、広島市の中心に位置する中区、現在は原爆ドームと呼ばれている広島県産業奨励館の近くに自身の写真館「広島写真館」を開業。若次は、中国新聞社や地元の新聞社の仕事、また日本軍やその他地元企業の契約カメラマンとしての仕事を手掛けた。また若次はアート写真も追求し続けた。
1942
- 撮影用品不足のため、若次は写真館を閉鎖。若次は撮影機材やこれまで撮影した写真、家族の荷物などを馬車に乗せ、広島中心部から約16キロ離れた廿日市市地御前へと引っ越した。
1943
- 若次が山口県宇部市の炭鉱に政府の命令で動員される。炭鉱で働くうち、深刻な肺の病気を患う。
1945
- 軌道を逸れたアメリカの爆弾が松本若次の自宅を襲い、近所の人数人が亡くなり、若次の写真館の小さな暗室と機材も破壊される。しかし若次の撮影した写真は安全に保管されており被害を受けず。
- 日本側とアメリカ側でそれぞれ戦った松本の兄弟全員は、無事生き残り、残りの家族も無事であった。
1965
- 若次が広島の地御前で76歳で逝去。
2008
- 若次の写真が孫の大内斉によって実家の倉庫から再発見されます。写真、ネガフィルム、ガラス乾板、その他の遺品を含む全てのコレクションが広島市公文書館に寄贈。
2014
- 広島平和記念資料館は改装を行い、メインの写真として、1938年に松本若次によって撮影された相生橋と原爆ドームの写真を壁一面に大きく引き伸ばし壁面写真として設置。その他、原爆投下前の広島の日常風景を撮影した写真も飾られている。