Full Institution name
Japanese American National Museum
Machine Name
janm

全米日系人博物館は、11月9日(土)~2020年6月7日(日)に、特別展「きのこ雲の下で:広島、長崎と原爆(Under a Mushroom Cloud: Hiroshima, Nagasaki, and the Atomic Bomb)」を開催します。これは2020年、広島と長崎への原爆投下から75周年を迎えるのにあわせて、全米日系人博物館が広島市、長崎市と共に開催するものです。

1945年8月6日、広島に、そして3日後の8月9日、長崎に、人類史上初めて原子爆弾が投下されました。この2つの都市は瞬く間に破壊され、無差別に多くの命が奪われました。そして、その惨劇を生き延びた人々も心身に深く傷を負い、彼らの人生もまた大きく変わってしまったのです。

この展覧会では、広島、長崎と原爆の歴史を、広島平和記念資料館が作成した解説パネルで伝えると共に、被爆者が身に着けていた衣類や持ち物といった被爆資料を展示します(被爆資料の展示は2020年3月1日まで)。広島市、長崎市からお借りするこれらの資料の中には、2016年に現職の大統領として初めて広島を訪問したオバマ大統領が折った折鶴も含まれます。この折鶴をはじめ複数の資料が、アメリカ西海岸では初めての展示です。

無料

「松本若次:二つの世界を生きた芸術家 ロサンゼルスと広島、1917年〜1944年」展を、若次の仕事の意味とコレクションの裏話を語るオンライン・プログラムとともにお楽しみください。キュレーターのデニス・リード、若次の孫娘であるカレン松本、元「中国新聞」記者の西本雅実らを迎え、若次の写真とレガシーについて座談会を行います。

Zoomでの開催で英日同時通訳がつきます。ご予約の際に日英希望の言語を記してください。

全米日系人博物館(JANM)は、オンライン特別展「松本若次:二つの世界を生きた芸術家 ロサンゼルスと広島、1917年〜1944年」janm.org/ja/wakaji-matsumoto)を開始しました。この展覧会は、写真家、松本若次のレンズを通して撮影された、第二次世界大戦前のロサンゼルスの日系アメリカ人コミュニティーと、1945年の原爆投下前の広島の都市の生活を記録した貴重な写真をご紹介します。

「この重要な写真集をjanm.orgで公開できることを誇りに思います。若次の作品は、ロサンゼルスのリトル東京で活躍したこの世代の写真家たちが、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本と幅広いつながりを持っていたことを物語っています。このオンライン展示は、写真の歴史を多様化し、リトル東京の歴史を深化させるものです。より多くの人々が彼の作品の豊かさに触れ、日系アメリカ人の経験がいかに今日に深く関わり続けているかを発見できると考えています」と、アン・バロウズJANM館長兼CEOは話します。

全米日系人博物館(JANM)は、2022年9月25日(日)午前11時〜午後5時、第二次世界大戦中に米軍、司法省、戦時転住局の収容所に不当に収容された12万5000人を超える日系人の名前を初めて記録した「慰霊帳」を来館者の方に閲覧、署名していただく催しを開催します。

来館者には、第二次世界大戦中に収容された人々に思いを寄せていただけるよう、その名前を閲覧し、特別なはんこを使って、印を慰霊帳内に残していただくことができます。その際、誤字脱字を訂正したり、記録から漏れている名前を表記していただくなど、コミュニティーの方々の参加によって歴史的記録が修正され、慰霊帳が「活性化」されます。慰霊帳の見学は、インターネットから時間指定で予約できます。この慰霊帳は2022年9月25日(日)より1年間、博物館の開館時間内に展示予定です。

2022年12月10日(土)に松本若次の作品と、彼の写真とレガシーについて語るオンラインプログラムを開催します。出演は、キュレーターのデニス・リード、若次の孫娘であるカレン松本、元「中国新聞」記者の西本雅実です。日英同時通訳がつきます。

以下のリンクより詳細をご覧ください。予約も以下より受け付けています。

JANMのプログラムの一覧は、イベントカレンダーをご覧ください。

「松本若次:二つの世界を生きた芸術家 ロサンゼルスと広島、1917年〜1944年」では、写真家、松本若次のレンズを通して撮影された、第二次世界大戦前のロサンゼルスの日系アメリカ人コミュニティーと、1945年の原爆投下前の広島の都市の生活を記録した貴重な写真の数々をご紹介します。

ここでは本展のキュレーターであるデニス・リードと、若次の孫娘にあたるカレン松本によるエッセイ、教育アクティビティー、またその他関連リソースを紹介します。是非ご覧ください。

松本一家は1927年の夏に広島に帰郷しました。そして、広島市中区、現在は原爆ドームとして知られている広島県産業奨励館の近くに「広島写真館」を開きました。家族は写真館の二階で暮らしました。

若次は写真館のスタジオのほか、商業用の宣伝写真、また日本軍やその他企業の契約カメラマンとしての仕事も手掛けました。若次の写真は高く評価され、広く需要がありました。それ以外にも若次は、広島市内の日常風景や周囲の田舎の様子なども写真に収めました。これらの写真の多くは、その後原爆によって破壊されてしまう広島の人々や行事や風景を捉えた唯一の記録となっています。