1922年には若次はロサンゼルスの写真業界で写真家として活発に活動していました。そして1925年にはロサンゼルスのリトル東京にあった宮武東洋の写真館でアシスタントとして働き始めました。
東洋の父親は、ロサンゼルスの最初の和菓子職人の一人でした。若次と同じく東洋もまた、芸術の道に進むことを望んでいて、父親の跡は継ぎたくないと考えていました。東洋は地元の写真家H・K・シゲタの元で写真のコースを受講した後、1923年に「パリ写真スタジオ」を購入し、「リトル東京LA」と名前を変えました。東洋の写真館は次第にリトル東京で最も有名な写真館になっていきました。